戦場のピアニスト(2002年)
2002年のフランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作の戦争ドラマ映画です。
原作は、ユダヤ系ポーランド人ピアニストのウワディスワフ・シュピルマン(1911年12月5日-2000年7月6日)が1946年の戦時中に書いた体験記「ある都市の死」を脚色して映画化しています。
第75回アカデミー賞(2003年)では、最優秀作品賞を含む7つの賞にノミネートされましたが、「主演男優賞、監督賞、脚色賞」の計3つを受賞しています。(最優秀作品賞は、リチャード・ギアが出演しているアメリカのミュージカル映画「シカゴ」が受賞しています)
基本情報
・公開年:2002年(日本初公開:2003年2月15日)
・製作国:フランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画
・原題:The Pianist
・配給:アミューズピクチャーズ
・上映時間:2時間30分(150分)
・映論区分:G(年齢にかかわらずだれでも閲覧できる)
・時代設定:1930年代後半~1950年頃
みどころ
【みどころ①】シュピルマンが廃墟の一軒家でドイツ陸軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトと鉢合わせ
【みどころ②】ナチスドイツによるユダヤ人居住地区(ワルシャワ・ゲットー)でのユダヤ人迫害の恐怖
スタッフ
監督:ロマン・ポランスキー
<主な監督作品>
「水の中のナイフ」(1962年)
「袋小路」(1966年)
「ローズマリーの赤ちゃん」(1968年)
「チャイナタウン」(1974年)
「テス」(1979年)
「戦場のピアニスト」(2002年)
「ゴーストライター」(2010年)
「おとなのけんか」(2011年)
ロマン・ポランスキー監督は、1968年1月20日に女優シャロン・テートと結婚し、その後、シャロン・テートはカルト集団「マンソンファミリー」により殺害され亡くなっています。脚色されていますが、その時の状況を映画化したのが、クエンティン・タランティーノ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(2019年)です。
キャスト
エイドリアン・ブロディ
<主な出演作品>
「シン・レッド・ライン」(1998年)
「サマー・オブ・サム」(1999年)
「戦場のピアニスト」(2002年)
「ヴィレッジ」(2004年)
「キング・コング」(2005年)
「プレデターズ」(2010年)
「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014年)
トーマス・クレッチマン
<主な出演作品>
「戦場のピアニスト」(2002年)
「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(2004年)
「バイオハザードII アポカリプス」(2004年)
「キング・コング」(2005年)
「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」(2015年)
「タクシー運転手 約束は海を越えて」(2017年)
受賞歴
第75回アカデミー賞(2003年)
・主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)
・監督賞(ロマン・ポランスキー)
・脚色賞(ロナルド・ハーウッド)
第55回カンヌ国際映画祭(2002年)
・パルム・ドール(最高賞)
あらすじ ※ネタバレ注意
1939年、ポーランドのワルシャワでユダヤ人のウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)はピアニストとしてラジオ等で活躍していた。
1939年9月、第二次世界大戦が勃発しナチスドイツはポーランドへ侵攻を開始する。シュピルマンがスタジオで録音をしていたラジオ局はドイツ空軍による爆撃で被害を受ける。シュピルマンは混乱の中、友人ユーレクとその妹ドロタとラジオ局の階段で出会い、会話を少し交わし避難する。
帰宅したシュピルマンは、イギリスとフランスがナチス・ドイツに対して宣戦布告をしたことを英国のラジオ放送で知り、戦争は早期に終結すると信じて家族と共に喜ぶ。
しかし、状況は悪化するばかりで、ワルシャワはドイツ軍に占領され、警察による過激な弾圧によりユダヤ人の生活は悪化していく。
そんな状況の中、シュピルマンは友人ユーレクに連絡しドロタと再会する。ドロタとコーヒーを飲もうとお店に入ろうとするが、入り口の「ユダヤ人 お断り」の看板を見て入店をあきらめ、公園へ行くことも考えるが、公園も立ち入りが制限されていることから道で立ち話をする。
そのあと自宅に帰ると、12歳以上のユダヤ人を対象に、外出時に「白地に青いダビデの星」が印刷された腕章を右袖につけることを義務付けられ、これに従わないユダヤ人は厳罰に処すとの記事が新聞に掲載されていることを家族から聞く。
さらに、1940年10月にはワルシャワ地区の長官の命令で、ユダヤ人居住地区(ワルシャワ・ゲットー)を設立し、市内の40万人近くの全てのユダヤ人はその居住地区に住むよう命じられ、シュピルマンの一家はそのユダヤ人居住地区に移動する。
ユダヤ人たちはゲットーに押し込められ、飢餓、迫害、そして死の恐怖に脅かされる。
ある日、シュピルマンの家に、友人のユダヤ人ゲットー警察署長ヘラーが訪れ、ユダヤ人警察を募集していることを伝えるがシュピルマンと弟のヘンリクはそれを断る。
シュピルマンがいつものようにレストランでピアノ演奏の仕事をしていると、そこにシュピルマンの姉ハリーナが訪れ、弟ヘンリクがユダヤ人警察に捕まったことを知らせる。シュピルマンは、ゲットー警察署長で友人でもあったヘラーにヘンリクを解放するよう助けを求める。ヘラーは「警察に入るべきだったな」と言いヘンリクを解放する。
1942年3月15日、シュピルマンとその家族は、多くのユダヤ人と共に親衛隊の命令で戸外に集められ、財産を取り上げられる。
1942年8月16日、シュピルマンたち家族は、多くのユダヤ人と絶滅収容所行きの家畜用列車に乗せられるが、シュピルマンだけはユダヤ人ゲットー警察署長ヘラーの機転により救われその場を逃れる。
ひとり残されたシュピルマンは、移送されずに労働力として残された男性ユダヤ人たちに混じり、ゲットー内で強制的に働かされる。
ここでシュピルマンは、ドイツがユダヤ人の絶滅を計画していること、そして生き残ったユダヤ人の若者たちは戦う準備をしていることを知人のマヨレクというユダヤ人から聞く。
シュピルマンは慣れないレンガ運びの労働でヘマをし、ドイツ人警察官の罰に耐え切れずに倒れてしまうが、仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回される。シュピルマンは食料調達の立場を利用してゲットーへの武器持ち込みを手伝う。
ある日の夜、ユダヤ人労働者たちが寝静まった頃、シュピルマンはマヨレクにゲットーから逃げ出したいと相談を持ちかけ、以前、労働中にジェラズナ広場で見かけたポーランド人の古い友人ヤニナに匿(かくま)ってもらえないか頼んで欲しいとお願いをする。
匿ってもらえることがわかり、ゲットーを脱出したシュピルマンは、友人ヤニナとその夫アンジェイが加わる反ナチス地下活動組織に匿われて、ゲットーの近くの部屋に隠れ住む。
1943年4月19日、ユダヤ人の若者たちが計画していたワルシャワ・ゲットーでの反乱が始まり、シュピルマンは部屋の窓からドイツ側との激しい交戦を目の当たりにするが、1か月足らずで反乱は鎮圧され、ゲットー内のユダヤ人は壁に並ばされ銃で射殺される。
ある日、反ナチス地下活動組織の世話人が部屋に訪れ、ヤニナが捕まったため逃げるよう言われるが、シュピルマンは部屋を離れず居残る。一人残されたシュピルマンは隣人に存在を気付かれ騒がれたため、隠れ家から離れる。
ヤニナの夫アンジェイから、緊急時の行き先として手渡されていたメモの住所を訪ねると、そこには友人ユーレクの妹ドロタとその夫ミルカ・ジキェヴィッチが 住んでいた。
シュピルマンはミルカに匿(かくま)われ、翌日、監視の目の盲点を突くため、ドイツ陣営の真ん中で、正面は負傷兵が運ばれる病院、その隣は都市防衛警察と「獅子の懐(ふところ)」のようなところにある隠れ家へ案内される。
しかし地下運動家で世話人のシャワスからの食料の差し入れが滞り、内臓疾患で死にかけるが、ドロタたちの看病により何とか持ちこたえる。
ミルカ一家はドロタの実家があるポーランドのオトヴォックに避難し、1944年8月、ポーランド人の抵抗勢力がワルシャワで蜂起(ほうき)を起こす。
シュピルマンは、それを隠れ家の窓越しに見守るが、この蜂起もナチスドイツに鎮圧され、ワルシャワは報復として大規模な破壊を受ける。
まもなくシュピルマンが居た隠れ家もドイツ軍に包囲され砲撃を受ける。砲撃・放火、ポーランド人狩りから逃げ惑うシュピルマンは、廃墟と化した街中で孤立無援となる。
ある日、廃墟にある一軒家で食べ物を探していたシュピルマンは、OGÓRKI(オグルキ、きゅうりのピクルス)の缶詰を見つける。そこへドイツ軍がやって来て、屋根裏部屋に身を隠していたシュピルマンは、何者かが弾くピアノの音を耳にする。
その後、夜になりシュピルマンは缶詰を何とかして開けようとしているところをドイツ陸軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトと鉢合わせする。
シュピルマンを見つけたホーゼンフェルトは彼の職業を尋ね、ピアニストであることを知ると、一階に残されていたピアノで何か弾くように言う。
シュピルマンは、静かにショパンのバラード第一番を弾き始める。ホーゼンフェルトは、その見事なピアノの音色に感動し、隠れている場所と食べ物有無を確認してその場を立ち去る。
ホーゼンフェルトは、シュピルマンが隠れていた一軒家に拠点を設け、周囲の目を盗んでシュピルマンに食料を差し入れる。包みの中身は、ジャムにライ麦パンと缶切りが添えられていた。
ソ連軍の砲撃の音が一軒家の近くまで迫り、ホーゼンフェルトは、シュピルマンにコートと食料を渡して撤退する。
別れ際に、戦争が終わったら何をするかと聞かれ、シュピルマンはラジオでピアノを弾くと答える。ホーゼンフェルトその放送を聞くため更に名前を聞き、名前を知ると「ピアニストらしい名だ」と言い残し去る。
しばらくして、拡声器でポーランド国歌を流す終戦を知らせる一台のトラックが通り、次いでポーランド軍が現れる。
ドイツ将校のコートを着たシュピルマンは、ポーランド軍の兵士たちにドイツ軍と間違われ銃を発射されるが、同じポーランド人であることがわかり助かる。
終戦後、シュピルマンは同僚のバイオリニストに案内され、そのバイオリニストが「シュピルマンを助けた」というドイツ将校が捕まっているのを見たという場所へ案内されるが、その場所には何もなかった。
ようやくシュピルマンは大ポロネーズで演奏することが叶(かな)う。
ドイツ陸軍将校だったヴィルム・ホーゼンフェルトは、1952年にソ連の戦犯捕虜収容所で死亡し、シュピルマンはその後もピアニストとしてワルシャワで暮らし、2000年7月6日に88歳で他界する。
感想
本作品は、2003年の映画公開時に話題になり一度見ましたが、あらためて見ても良い作品だと思います。
内容は、ユダヤ系ポーランド人のシュピルマンというピアニストが書いた体験記をもとに、ナチスドイツによるユダヤ人迫害を描いた作品で、重たい内容の話ですが、「リアルに再現された映像」と「本人の体験をもとにした物語」で映画に引き込まれます。
ナチスドイツによるユダヤ人迫害の話は、他の映画や本でも見ることがあり、どの作品もその悲惨さを痛感しますが、本作品でも、戦時下では一日一日を生き延びることがいかに大変か、二度と戦争を繰り返してはいけないことを痛感させられます。
この映画が他の戦争映画と違うのは、主人公がピアニストで、ピアニストだったことにより、音楽関係者に助けられたり、ドイツ軍将校に生かされたりします。その人の運もあると思いますが、冗談抜きで「芸は身を助ける」とはこのことだと思います。
本作品は、体験記をもとに作られていますので、歴史の一部を知る上でとても良い作品だと思いますし、映画としても名作の一つだと思います。
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評価
4.4点/5点満点